追記その2。
友情について。
「みんな、一緒に殴られようぜ」という空気に一時は高揚し、約束してしまうコぺル君。
が、実際に友人らが暴行を受ける姿を見て、『一緒に殴られる』というその約束をやぶって、逃げてしまうコぺル君。
でも、これって、友だちへの裏切り・・・なんだろうか。
その場のノリで「僕も一緒に殴られる」=『みんな、一緒に』っていう空気にもやもや感。
そうそう、アメリカの高校で・・・「白血病の女子生徒が抗がん剤治療のため、髪が抜けてしまったため、クラス皆(女子も)が丸坊主=スキンヘッドになって、退院し登校してきた女子高校生を迎える」という話を思い出した。
皆一緒に、同じ姿になろう・・・アメリカでさえ、そういう話が『感動的』と捉えられるんだよなあ。
中にはきっと坊主になるのを嫌だった子もいるだろうに、同調圧力がかかり、嫌とは言えないよなあ。
んで、この実話、「友情」というタイトルで、日本でも映画化された。
友情ね・・・。
これ、一緒に殴られる、と同じ構図かも。
一緒に坊主。
一緒に殴られる。
一緒に同じ目にあう。
一緒ならそれでいい?
安っぽい友情。
特に、暴行を受けた場合、下手すりゃ大怪我を負ったり、障害が残ったり、運が悪けりゃ死んだりする。
逃げればよかったと後悔することもありえる。
坊主になるのだって、その場の空気で「私も坊主になる」って約束したとしても、いざ、バリカンが入る時は逃げ出したくなったりして。それで実際に逃げたら、卑怯者? 裏切り者?
うん、やっぱり「君たちはどう生きるのか」は、ワシの価値観には合わなさそう。
殴られている友だちを見捨てたとされるコぺル君、そのことで罪悪感に苦しむコぺル君だけど・・・
そもそも、一緒に殴られる必要はないだろう。
一緒に殴られることを良しとする・・・それが受け入れられない。
同じく、女子も含め皆で坊主になる「友情」も気持ち悪い。
殴られることが怖くなり、約束を破り、逃げることを裏切り行為=「いけないこと」という話に違和感。
これって・・・皆、一緒に命を捧げよう・・・特攻隊の話にもつながっていくよなあ。
皆で一緒に嫌な目に合おうって約束しつつも、やっぱ直前になって、逃げることを裏切り行為、恥ずかしい行為とする価値観って、恐ろしくないか?
一緒に嫌な目に合おう・・・坊主になる、殴られる、がOKなら、一緒に死のう、命を捧げようもOK?
追記。
違和感もつ「君たちはどう生きるか」
http://sayadaiharu.blog.fc2.com/blog-entry-411.htmlより
【浦川君は、もし北見君が殴られることになったら「北見君を殴るんだったら、僕らのことを殴れ」って言うんだ。水谷君とコペル君も同意し、4人の約束が成立します】
友だちと一緒に殴られる・・・ああ、なんて素敵な友情・・・とは思わん。
いや、少年漫画の世界ならたしかに一緒に殴られることは友情かもしれんが・・・
ワシは一緒に殴られるのは嫌だぜ。
殴られないよう、暴力行為を受けないよう、回避するように、予め、策を講じておくほうがいいのでは。
まず皆で逃げる、逃げられなくても、4人のうち、1人は逃げられる。そして、周りの大人、周りの人に助けを求めるようにする。
なぜ、理不尽な暴力を一緒に受けなくてはいけないのだ?
それよりも、山口君をもっと徹底的に叩きのめし、こちらを恐れさせるくらいに、叩きのめせば、復讐されなかったかも。
なのに、いじめられっこの浦川君は、山口君を中途半端にかばってしまった。
山口君がここで反省すれば問題なかったけど、ま、反省するくらい人間ができていれば、最初からいじめないだろう。
そう、そんな中途半端なことで反省などしない。それが現実だ。
仕返しなど考えさせないくらいに、徹底的に叩きのめすべきだった。
そういう考えは『悪』なのだろう。
「君たちはどう生きるか」にそぐわないだろう。
でも、だからといって、理不尽な暴力を甘んじて受けることが友情なのか???
逃げたコぺル君は、裏切ったことになるのか?
悪いのは、反省すべきは、コぺル君ではなく、山口君だろう。
でも、大人たちは山口君への説得の言葉を持たない。
やはり、「君たちはどう生きるか」の価値観には共感できない。
本文。
※漫画「君たちはどう生きるか」について参照サイト。
http://true-buddhism.com/teachings/howyoulive/
https://www.flierinc.com/summary/1295
http://sayadaiharu.blog.fc2.com/blog-entry-411.html
話題になっているため、各方面から「どんなお話か」が伝わってくる。
ワシは現時点で未読ではあるが、その伝わってくる内容、漫画版の絵柄から、「やっぱ自分には合わなさそう。でも話題になっているしなあ」と思いつつ、図書館で予約した。読めるのは数カ月先だろう。
それでも、伝え聞くあらすじから、「う~ん、なんだかなあ」と思った点を語ろう。
注・・・ワシは「君の名は」も「かがみの孤城」も、さほど心を動かされず、皆が「よかった、よかった」というほど良く思えなかった・・・世間一般と感性と価値観がずれている人間であることを前置きしておく。
さて、なぜ今、これを取り上げるのかと言うと、その前に、同じく「イジメ」「不登校」をテーマにした『かがみの孤城』を読んだからだ。
異世界である『孤城』で知り合った『イケメン紳士・王子様リオン君』が、リアル世界で主人公・女子中学生の目の前に現れ、主人公の望みでもあった『レベルの高いお友だち=イケメンが私を選んでくれそうだ』という終わり方に「おいおいおい」と白けてしまい、『かがみの孤城』をさほど高く評価していないワシであるが・・・
唯一「これは現実的だ」と評価した点がある。
それは・・・イジメにあい、不登校となった主人公・女子中学生が、最後まで、いじめっ子加害者と和解をしなかったこと、話し合いに応じず、とにかく関係を断つことを選択し、その意志を親とカウンセラーがすんなりと認め、応援したことだ。
主人公は不登校という手段で逃げ、加害者とは距離を置き、
大人たちはそれを認め、無理に和解をさせようとしなかった。
でも、「君たちはどう生きるか」に感動する大人たちは、そんな解決法など良しとしないのかもしれないな。
「君たちはどう生きるのか」は、「勇気をもて」「逃げずに立ち向かえ」という感じ。
うん、昔はそう教えられてきた。それはたぶん「正しくて立派なこと」だ。
それができる人間はそうすればいい。
だが、今の時代の価値観では「逃げてもいい」「無理しなくていい」「立派に生きなくてもいい」のである。
それでも・・・
「君たちは~」のコぺル君、友人が暴力を振るわれているところから逃げ、あれほど後悔するならば・・・暴力事件が起きた時、周囲の大人たちのところへいって、大人たちに止めさせるという選択肢はなかったのか?
というか、すでに友だちが、上級生に目をつけられ、あぶないことを悟っていた。
その時すでに大人に相談することもできたはず。
それだって勇気ある行動だ。
それとも、先生や親に介入してもらうのは、卑怯?
あの時代の価値観であれば、そうだろうけど、今の価値観は違ってきている。
そう、時代が違うから仕方ないけど、「君たちはどう生きるか」は、子どもたちの問題に大人が深く立ち入ってない。
「おじさん」も、コぺル君に教え諭すだけだ。
そして「君たちはどう生きるか」では、バカにされてイジメられていた子が、そのいじめっ子を許す場面がある。
ここがとてもひっかかった。
そう、「かがみの孤城」では、主人公は加害者いじめっ子を決して許さなかった。
いじめっ子からの真の謝罪などない。その場の形だけの謝罪でおわりにされることが目に見えるから。
そもそも、バカにしている人間に、心からの謝罪などしない。
バカにしているからこそいじめるのだ。
※案の定、「君たちは~」では、いじめっ子は反省などせず、兄に仕返しを頼むのだ。
うん、「かがみの孤城」のほうがリアル。
対する「君たちはどう生きるのか」は、きれいごと。
「君たちはどう生きるか」では、いじめっ子が制裁を受けていたところを、イジメラレっこが「許してやって」と勇気を持ってかばい、大声で発言したのは・・・いやあ、立派すぎ・・・きれいごとすぎて、非現実的。
ワシはこれを知って、一気に白けた。
そんな勇気がある子は、そもそもいじめられないよなあ。
それほどの勇気があるなら、なぜ、バカにされからかわれた時、「やめて」と大声を出さなかった? とも思う。
※もちろん、時代の価値観がある。今だって、「いじめられていることを親や先生に相談するのは恥ずかしい、親に心配をかけたくない」という気持ちを抱く。自分が我慢すればいい、と。
とにかく「君たちはどう生きるのか」は、今の時代と合わないのでは? これを子どもに読ませてもなんだかなあ、大人のノスタルジーを押し付けていることになるのでは、とすら思ってしまう。
いやあ、20代、10代の人、ほんとうに「君たちはどう生きるか」に感銘を受けているのか?
ワシはこのイジメ問題、解決法、考え方・価値観については、全く感銘できず・・・特にいじめられている子にしてみれば「きれいごと」を押し付けられる迷惑な本では、と思う。
これなら「かがみの孤城」のほうがずっといい。
「かがみの孤城」の、「お勉強もスポーツもできて容姿もいいレベルの高いお友だちが、私を選んでくれる」というムシのいい望みを抱き、いじめっ子とは和解せずに許さなかった主人公は、リアルと言えばリアルだ。
※ラストの、『レベルの高いイケメン王子様』がリアル世界に現れ、主人公のムシのいい望みを叶えるところがなかったら、よかったのに。
対して「君んたちどう生きるか」・・・
この作品に感銘を受けたという著名人の方を見ると、「ああ、この人たち、いじめられた経験なさそうだな」と思う面々ばかり。弱者・最下層に置かれたことがない人間、うまく人間関係を築いている人間のように思った。
んで、コぺル君の髪形、あの時代、ありえるのか?(男の子は坊主だよなあ)・・・
そのうえ、偉そうに説教するおじさんって無職なのか・・・いやあ、コぺル君の心の支えになっている時点で充分じゃ。無職が「立派な人間について」を説くのはなかなかいいよなあ、と思いつつ・・・
それならば、なおのこと、「イジメ」の描き方がなんだかなあ。
ワシが今の時代に生きる「いじめられる側」の子どもなら、この「君たちはどう生きるか」は、単に鼻につく、大人が押し付けてくる迷惑なお話だろうな。
立派な人間になることをテーマに物語に書くならば、【卑怯ないじめっ子】を主人公に書いてほしいよなあ。
イジメラレっこや周りに流され自己保身に走る普通の子を反省させたりする物語じゃなくさ、
いじめっ子に焦点を当てて、いじめっ子を描く話をね。
そう、「君たちはどう生きるか」・・・のいじめっ子・山口君の人間性はこうだ。
浦川君をバカにして、いじめていた山口君。
浦川君へのいじめをみかねて山口君に制裁を加えようとした北見君。その北見君をうらみ、兄に復讐を頼んだ卑怯で汚い山口君。
山口君こそ、どう生きるのか、どう立ち直らせるのか、が大事では?
それなのに山口君にはあまり焦点が当てられない。
「君たちは~」は、はじめから「卑怯でどうしようもない人間」と見放しているように思える。
本当の問題児をスル―しているご都合主義の話にしか思えない。
大人が説教すべき人間は、素直なコぺル君ではなく、どうしようもない人間性の卑怯な山口君だ。
山口君への視点がすっぽり抜け落ちた「君たちはどう生きるか」・・・にがっかり。
だからこそ「イジメ問題」はなくならない。大人は、本当に問題すべきな「いじめっ子」をスル―しているんだもの。
そのことを「君たちはどう生きるか」も示している。
この原作者・吉野源太郎氏・・・子どもに「立派な人間」とやらになってほしいならば、素直なコぺル君ではなく、本当に卑怯な山口君を中心に描くべきだった。彼をどう立ち直らせるのかを描いてほしかったよなあ。
卑怯な山口君を卑怯なままで終わらせている「君たちはどう生きるか」・・・やっぱりこれもきれいごとのご都合主義な作品だと思った。
説教臭い話だけに、「かがみの孤城」よりも、大いに白けた。
友情について。
「みんな、一緒に殴られようぜ」という空気に一時は高揚し、約束してしまうコぺル君。
が、実際に友人らが暴行を受ける姿を見て、『一緒に殴られる』というその約束をやぶって、逃げてしまうコぺル君。
でも、これって、友だちへの裏切り・・・なんだろうか。
その場のノリで「僕も一緒に殴られる」=『みんな、一緒に』っていう空気にもやもや感。
そうそう、アメリカの高校で・・・「白血病の女子生徒が抗がん剤治療のため、髪が抜けてしまったため、クラス皆(女子も)が丸坊主=スキンヘッドになって、退院し登校してきた女子高校生を迎える」という話を思い出した。
皆一緒に、同じ姿になろう・・・アメリカでさえ、そういう話が『感動的』と捉えられるんだよなあ。
中にはきっと坊主になるのを嫌だった子もいるだろうに、同調圧力がかかり、嫌とは言えないよなあ。
んで、この実話、「友情」というタイトルで、日本でも映画化された。
友情ね・・・。
これ、一緒に殴られる、と同じ構図かも。
一緒に坊主。
一緒に殴られる。
一緒に同じ目にあう。
一緒ならそれでいい?
安っぽい友情。
特に、暴行を受けた場合、下手すりゃ大怪我を負ったり、障害が残ったり、運が悪けりゃ死んだりする。
逃げればよかったと後悔することもありえる。
坊主になるのだって、その場の空気で「私も坊主になる」って約束したとしても、いざ、バリカンが入る時は逃げ出したくなったりして。それで実際に逃げたら、卑怯者? 裏切り者?
うん、やっぱり「君たちはどう生きるのか」は、ワシの価値観には合わなさそう。
殴られている友だちを見捨てたとされるコぺル君、そのことで罪悪感に苦しむコぺル君だけど・・・
そもそも、一緒に殴られる必要はないだろう。
一緒に殴られることを良しとする・・・それが受け入れられない。
同じく、女子も含め皆で坊主になる「友情」も気持ち悪い。
殴られることが怖くなり、約束を破り、逃げることを裏切り行為=「いけないこと」という話に違和感。
これって・・・皆、一緒に命を捧げよう・・・特攻隊の話にもつながっていくよなあ。
皆で一緒に嫌な目に合おうって約束しつつも、やっぱ直前になって、逃げることを裏切り行為、恥ずかしい行為とする価値観って、恐ろしくないか?
一緒に嫌な目に合おう・・・坊主になる、殴られる、がOKなら、一緒に死のう、命を捧げようもOK?
追記。
違和感もつ「君たちはどう生きるか」
http://sayadaiharu.blog.fc2.com/blog-entry-411.htmlより
【浦川君は、もし北見君が殴られることになったら「北見君を殴るんだったら、僕らのことを殴れ」って言うんだ。水谷君とコペル君も同意し、4人の約束が成立します】
友だちと一緒に殴られる・・・ああ、なんて素敵な友情・・・とは思わん。
いや、少年漫画の世界ならたしかに一緒に殴られることは友情かもしれんが・・・
ワシは一緒に殴られるのは嫌だぜ。
殴られないよう、暴力行為を受けないよう、回避するように、予め、策を講じておくほうがいいのでは。
まず皆で逃げる、逃げられなくても、4人のうち、1人は逃げられる。そして、周りの大人、周りの人に助けを求めるようにする。
なぜ、理不尽な暴力を一緒に受けなくてはいけないのだ?
それよりも、山口君をもっと徹底的に叩きのめし、こちらを恐れさせるくらいに、叩きのめせば、復讐されなかったかも。
なのに、いじめられっこの浦川君は、山口君を中途半端にかばってしまった。
山口君がここで反省すれば問題なかったけど、ま、反省するくらい人間ができていれば、最初からいじめないだろう。
そう、そんな中途半端なことで反省などしない。それが現実だ。
仕返しなど考えさせないくらいに、徹底的に叩きのめすべきだった。
そういう考えは『悪』なのだろう。
「君たちはどう生きるか」にそぐわないだろう。
でも、だからといって、理不尽な暴力を甘んじて受けることが友情なのか???
逃げたコぺル君は、裏切ったことになるのか?
悪いのは、反省すべきは、コぺル君ではなく、山口君だろう。
でも、大人たちは山口君への説得の言葉を持たない。
やはり、「君たちはどう生きるか」の価値観には共感できない。
本文。
※漫画「君たちはどう生きるか」について参照サイト。
http://true-buddhism.com/teachings/howyoulive/
https://www.flierinc.com/summary/1295
http://sayadaiharu.blog.fc2.com/blog-entry-411.html
話題になっているため、各方面から「どんなお話か」が伝わってくる。
ワシは現時点で未読ではあるが、その伝わってくる内容、漫画版の絵柄から、「やっぱ自分には合わなさそう。でも話題になっているしなあ」と思いつつ、図書館で予約した。読めるのは数カ月先だろう。
それでも、伝え聞くあらすじから、「う~ん、なんだかなあ」と思った点を語ろう。
注・・・ワシは「君の名は」も「かがみの孤城」も、さほど心を動かされず、皆が「よかった、よかった」というほど良く思えなかった・・・世間一般と感性と価値観がずれている人間であることを前置きしておく。
さて、なぜ今、これを取り上げるのかと言うと、その前に、同じく「イジメ」「不登校」をテーマにした『かがみの孤城』を読んだからだ。
異世界である『孤城』で知り合った『イケメン紳士・王子様リオン君』が、リアル世界で主人公・女子中学生の目の前に現れ、主人公の望みでもあった『レベルの高いお友だち=イケメンが私を選んでくれそうだ』という終わり方に「おいおいおい」と白けてしまい、『かがみの孤城』をさほど高く評価していないワシであるが・・・
唯一「これは現実的だ」と評価した点がある。
それは・・・イジメにあい、不登校となった主人公・女子中学生が、最後まで、いじめっ子加害者と和解をしなかったこと、話し合いに応じず、とにかく関係を断つことを選択し、その意志を親とカウンセラーがすんなりと認め、応援したことだ。
主人公は不登校という手段で逃げ、加害者とは距離を置き、
大人たちはそれを認め、無理に和解をさせようとしなかった。
でも、「君たちはどう生きるか」に感動する大人たちは、そんな解決法など良しとしないのかもしれないな。
「君たちはどう生きるのか」は、「勇気をもて」「逃げずに立ち向かえ」という感じ。
うん、昔はそう教えられてきた。それはたぶん「正しくて立派なこと」だ。
それができる人間はそうすればいい。
だが、今の時代の価値観では「逃げてもいい」「無理しなくていい」「立派に生きなくてもいい」のである。
それでも・・・
「君たちは~」のコぺル君、友人が暴力を振るわれているところから逃げ、あれほど後悔するならば・・・暴力事件が起きた時、周囲の大人たちのところへいって、大人たちに止めさせるという選択肢はなかったのか?
というか、すでに友だちが、上級生に目をつけられ、あぶないことを悟っていた。
その時すでに大人に相談することもできたはず。
それだって勇気ある行動だ。
それとも、先生や親に介入してもらうのは、卑怯?
あの時代の価値観であれば、そうだろうけど、今の価値観は違ってきている。
そう、時代が違うから仕方ないけど、「君たちはどう生きるか」は、子どもたちの問題に大人が深く立ち入ってない。
「おじさん」も、コぺル君に教え諭すだけだ。
そして「君たちはどう生きるか」では、バカにされてイジメられていた子が、そのいじめっ子を許す場面がある。
ここがとてもひっかかった。
そう、「かがみの孤城」では、主人公は加害者いじめっ子を決して許さなかった。
いじめっ子からの真の謝罪などない。その場の形だけの謝罪でおわりにされることが目に見えるから。
そもそも、バカにしている人間に、心からの謝罪などしない。
バカにしているからこそいじめるのだ。
※案の定、「君たちは~」では、いじめっ子は反省などせず、兄に仕返しを頼むのだ。
うん、「かがみの孤城」のほうがリアル。
対する「君たちはどう生きるのか」は、きれいごと。
「君たちはどう生きるか」では、いじめっ子が制裁を受けていたところを、イジメラレっこが「許してやって」と勇気を持ってかばい、大声で発言したのは・・・いやあ、立派すぎ・・・きれいごとすぎて、非現実的。
ワシはこれを知って、一気に白けた。
そんな勇気がある子は、そもそもいじめられないよなあ。
それほどの勇気があるなら、なぜ、バカにされからかわれた時、「やめて」と大声を出さなかった? とも思う。
※もちろん、時代の価値観がある。今だって、「いじめられていることを親や先生に相談するのは恥ずかしい、親に心配をかけたくない」という気持ちを抱く。自分が我慢すればいい、と。
とにかく「君たちはどう生きるのか」は、今の時代と合わないのでは? これを子どもに読ませてもなんだかなあ、大人のノスタルジーを押し付けていることになるのでは、とすら思ってしまう。
いやあ、20代、10代の人、ほんとうに「君たちはどう生きるか」に感銘を受けているのか?
ワシはこのイジメ問題、解決法、考え方・価値観については、全く感銘できず・・・特にいじめられている子にしてみれば「きれいごと」を押し付けられる迷惑な本では、と思う。
これなら「かがみの孤城」のほうがずっといい。
「かがみの孤城」の、「お勉強もスポーツもできて容姿もいいレベルの高いお友だちが、私を選んでくれる」というムシのいい望みを抱き、いじめっ子とは和解せずに許さなかった主人公は、リアルと言えばリアルだ。
※ラストの、『レベルの高いイケメン王子様』がリアル世界に現れ、主人公のムシのいい望みを叶えるところがなかったら、よかったのに。
対して「君んたちどう生きるか」・・・
この作品に感銘を受けたという著名人の方を見ると、「ああ、この人たち、いじめられた経験なさそうだな」と思う面々ばかり。弱者・最下層に置かれたことがない人間、うまく人間関係を築いている人間のように思った。
んで、コぺル君の髪形、あの時代、ありえるのか?(男の子は坊主だよなあ)・・・
そのうえ、偉そうに説教するおじさんって無職なのか・・・いやあ、コぺル君の心の支えになっている時点で充分じゃ。無職が「立派な人間について」を説くのはなかなかいいよなあ、と思いつつ・・・
それならば、なおのこと、「イジメ」の描き方がなんだかなあ。
ワシが今の時代に生きる「いじめられる側」の子どもなら、この「君たちはどう生きるか」は、単に鼻につく、大人が押し付けてくる迷惑なお話だろうな。
立派な人間になることをテーマに物語に書くならば、【卑怯ないじめっ子】を主人公に書いてほしいよなあ。
イジメラレっこや周りに流され自己保身に走る普通の子を反省させたりする物語じゃなくさ、
いじめっ子に焦点を当てて、いじめっ子を描く話をね。
そう、「君たちはどう生きるか」・・・のいじめっ子・山口君の人間性はこうだ。
浦川君をバカにして、いじめていた山口君。
浦川君へのいじめをみかねて山口君に制裁を加えようとした北見君。その北見君をうらみ、兄に復讐を頼んだ卑怯で汚い山口君。
山口君こそ、どう生きるのか、どう立ち直らせるのか、が大事では?
それなのに山口君にはあまり焦点が当てられない。
「君たちは~」は、はじめから「卑怯でどうしようもない人間」と見放しているように思える。
本当の問題児をスル―しているご都合主義の話にしか思えない。
大人が説教すべき人間は、素直なコぺル君ではなく、どうしようもない人間性の卑怯な山口君だ。
山口君への視点がすっぽり抜け落ちた「君たちはどう生きるか」・・・にがっかり。
だからこそ「イジメ問題」はなくならない。大人は、本当に問題すべきな「いじめっ子」をスル―しているんだもの。
そのことを「君たちはどう生きるか」も示している。
この原作者・吉野源太郎氏・・・子どもに「立派な人間」とやらになってほしいならば、素直なコぺル君ではなく、本当に卑怯な山口君を中心に描くべきだった。彼をどう立ち直らせるのかを描いてほしかったよなあ。
卑怯な山口君を卑怯なままで終わらせている「君たちはどう生きるか」・・・やっぱりこれもきれいごとのご都合主義な作品だと思った。
説教臭い話だけに、「かがみの孤城」よりも、大いに白けた。