・・・
穏やかな秋の日。
11月初旬。静也と理沙に息子の涼也が誕生してから1か月経つ。
赤ちゃんは丸みを帯びてきて、ますますかわいくなっていた。
白文鳥の『ふっくら』と『ぷっくり』も相変わらずだ。
けど理沙は夜中の授乳やおむつ替えで、すっかり疲れ果てていた。
若く体力があるはずの自分でさえこんなにキツイのだとしたら、高齢出産の人は本当に大変だろうと思うのと同時に、2人も3人も子どもを育てているお母さん方に尊敬の念を抱いてしまう。
夜中の度々の授乳は想像以上に大変だった。
仕事に行かなくてはならない静也にちゃんと寝てもらうために、理沙は赤ちゃんと居間で、静也は和室で、寝室を一時的に夫婦別々にしているほどだ。
寝不足状態がずっと続くので、静也が休みの日にゆっくり昼寝をさせてもらうことにしている。
そんなわけで待ちに待った休日。
理沙はグッスリ4時間ほど午睡し、赤ちゃんの泣き声で目覚めた。
ハッとして起き上がり、涼也にお乳をやる。
最近、ようやく飲むのが上手くなったものの吐くことも多い。
トントンと赤ちゃんの背中を軽く叩いてゲップさせ、ベビーベッドに寝かせる。
少しグズッたものの、涼也はおとなしく眠りに就いた。
理沙は大きく伸びをする。昼寝してだいぶラクになった。
「さて、買い物にでも行ってくるか~」
平日の昼間は、赤ちゃんの面倒を見てくれる人がほかにいないので外出もできない。
買い物は静也が仕事帰りにしているが、家にずっと閉じこもり状態の理沙は相当のストレスがたまる。
そんな時、理沙はふと思う。
児童養護施設へ自分の子を預けた親はどんな状態だったのだろう。
誰にも助けてもらえず、精神的に追い詰められた親もいたのかもしれない。
この辛さは赤ちゃんへの愛情だけでは解決できない問題だった。
それでも自分の場合、静也が助けてくれるので何とか乗り切っている。
静也が家にいてくれる休日は、理沙が買い物に出て、気分転換させてもらう。
そんな理沙が久しぶりの外出にいそいそと支度をしていると、静也が何となしに話しかけてきた。
「涼也の外出はまだ無理かなあ。男の子なら生後31日目でお宮参りに行くのが風習なんだけど」
ちなみに女の子は33日目に土地の守り神である産土神に参詣する。こういった儀式は室町時代からあったとされている。
「生後1か月じゃ、ちょっと心配だよね」
理沙は首を傾げながら応える。
「だよなあ。せいぜい外気浴か」
静也としては、理沙と一緒に赤ちゃん連れて散歩に行きたいところだが、それはもうちょっと先になりそうだ。
赤ちゃんはまだ眠っている時間のほうが多いので、留守番の間、パソコンをやったり、読書したり、『ふっくら』と『ぷっくり』と戯れたりして時間をつぶすことにする。
「じゃあ、あとよろしく。行ってくるね」
「ああ」
静也に見送られて、理沙は外に出た。
秋の淡い日差しと澄んだ青空が気持ちいい。のびのびと開放感を味わう。
いつも買い物は、近所の商店街を利用するのだけど、今日はちょっと遠くの大型ショッピングモールまで足を延ばしてみる。
休日なので、ショッピングモールは多くの人たちで賑わっていた。
平日の昼間はずっと家の中で赤ちゃんと二人きりの生活だった理沙のテンションが上がる。
家族連れも多く、赤ちゃんを抱っこしているママやパパもいた。何か月かすれば自分たちも仲間入り、静也と赤ちゃんと一緒に外出を楽しめる。その日が待ち遠しい。
足取り軽く、まずはエスカレータで家電製品が置いてあるフロアへ行く。最新式の掃除機を買おうかどうか検討中だ。冷蔵庫ももっと大きなものが欲しい。
テレビ売り場を通り過ぎようとした時、理沙はふと足を止めた。
何台か点いているテレビがドキュメンタリー番組のチャンネルになっており、児童養護施設のことが話題にされ、そこで暮らす子どもたちの姿を紹介していたからだ。
理沙はテレビの前にしばし佇む。
――児童養護施設時代が甦ってくる。
・・・
14歳の時。
両親を自動車事故でいっぺんに亡くした理沙だったが、今まで住んでいた地区の児童養護施設に入所できたので、転校せずに済み、8歳の時から施設に入所していたクラスメイトの四条静也と懇意になっていった。
孤児として児童養護施設のお世話になっていたのは理沙と静也の二人だけだ。ほかの入所者は、親の離婚や病気で育児困難になったため一時的に施設に預けられたか、もしくは虐待や育児放棄で保護された子どもたちだった。
家族を失った理沙は、静也以外の子たちと心を通わせることができなかった。一部の子たちからは「悲劇ぶりっ子」と揶揄され、嫌われてもいた。
それに……施設に入所してくる子どもは突然来て、突然いなくなる。理由は公には教えてもらえない。
虐待を受けた子や育児放棄された子自身、なぜ入所してきたのか、あまりしゃべりたがらない。そういったことはウワサとして流れてくるだけだった。
そう、そこは縁を築き、長く育むような環境になかった。
ある時――
理沙が洗面所で手洗いしていると、同じ施設にいる中学3年の女子生徒が話しかけてきた。
その子は施設での生活も長くボス的な存在で、理沙より学年が一つ上だった。
「ねえ、四条と仲いいみたいだけど、あいつ、やばいよ。そのうちDVされちゃうかもよ」
「え?」
「昔、すごい暴行、やらかしたらしいよ。それから誰も四条に近づかなくなったってわけ」
「……そうですか」
理沙のそっけない反応に、その子は不満げな顔をする。
「私の言ったこと、信じてないわけ」
せっかく教えてあげたのにというニュアンスを含みながら、にらんできた。
が、理沙は意に介さず、確かめてみた。
「それから何度も暴力をふるったんですか?」
「え」
「それ一回限り? それだけで四条君を『ヤバいヤツ』呼ばわりですか?」
「……」
その子は押し黙った後、理沙から視線を外し、怒りを含んだ短い言葉を投げつけた。
「むかつく」
プイッと背を向け去っていくその子を視界の端で捉えながら理沙は乾いたため息をひとつ吐き、自分の部屋に戻った。
それから間もなく――施設の女子の間で理沙は軽いイジメを受けるようになった。わざと、ぶつかられたり、足をひっかけられたり……。
最初は嫌な思いをしたけど、そのうち慣れた。
陰口は放っておいた。ぶつかられたり、足をひっかけられたりは、こちらが気をつければ大したことではない。
理沙と静也が世話になっていた施設では、中学生から個室が与えられていた。これは恵まれているほうだろう。
しかし異性の居室への行き来は禁止されており、男女の居室はフロアごとに分かれていた。
なので施設の宿舎にいる時は、静也とは別々になった。中学生以上の男女の交流は認められてなかった。
女子が集まる宿舎の中で、理沙はいつも独りぼっちだった。
でも別に気にならなかった。門限ギリギリまで静也と一緒に学校か公立図書館にいることが多く、施設に帰ってくれば食事と入浴を済ませ、あとは居室に戻って勉強して寝るだけの生活だ。
ほかの子との交流は持とうとは思わなかった。いや、あえて避けていた。
静也以外は皆、両親だろうが片親だろうが、親がいるのである。自分とは境遇が違う。心から分かり合えるはずがない。
だが、ある日――その事件は起きた。
シャワーを浴びている時、浴室で3人の女生徒に囲まれた。一人は中学3年の例のボス、残り二人は中学2年と中学1年だった。
「あんたさ、ちょっと生意気なんだよね」
ボスが詰め寄ってきた。
「何が?」
理沙は後ずさりながらもボスから視線を外さなかった。
――外したら負ける。
静也からもこう言われていた。「イジメにあったら……なめられるな。初めが肝心だ。ハッタリが効くようだったらかまして、隙を見て逃げろ」と。
トイレと浴室は一番警戒すべき場所だった。
――ついに来たか……。
覚悟はしていた。
「へえ、あんた、やる気?」
ボスが笑う。ケンカ慣れしていそうだ。
理沙が手にしているのは、体を洗うための濡れたタオルである。
ボスが目くばせすると、残り2人が理沙に襲いかかってきた。
が、すかさず理沙はタオルの端を持って振り回し、一人の顔を打った。
それを見たもう一人が怯んだのか、動きを止めた。
そう、理沙はすでに静也からアドバイスを受けていた。風呂場では水を滴らせたタオルを使えと。
水分を目いっぱい含んだタオルをヌンチャクのように扱えば、武器になる。当たれば相当、痛い。
狙うなら、まず顔、相手の目だ。
顔への攻撃は、とくに相手が女であれば、かなり有効だ。そこで戦意を喪失させることができるかもしれない。
そして静也はこうも言っていた。「オレの名前を出せ。たぶん……今でも……効く奴には効くと思う」
敵の動きが止まった隙に理沙は声を荒げた。
丁寧語はやめて、はすっぱな言葉を使った。
「そこらの女と一緒にしないでくれる? 私が『静也の女』ってこと分かってる?」
ボスは笑っていた顔を引っ込めた。
――そうだ、静也がヤバいヤツなら、私もヤバい女になればいいんだ。
今まで丁寧語だっただけに、突然、攻撃的な口調になった理沙の凄みは倍加された。
「静也のヤバさなんて、私に較べたら全然大したことないってこと。あんた、私の過去、知らないでしょ。ヤバい私は、親族全員に養育拒否されて、ここに来たってわけよ」
ここでハッタリをかませる。もうひと押しだ。
「あとで静也と一緒にあんたらをシメてもいいんだけど?」
これが効いたのか、ボスたちはオドオドし始め、後ずさった。
「そこ、通してくれる?」
理沙はボスをにらみつけた。本当は心臓が口から飛び出そうなくらいに緊張していたけど、こんな子たちに負けたくなかった。
それに両親を突然失うという恐怖に較べたら、こんなのは恐怖のうちに入らない。
緊張のために理沙の顔は歪んでいたが、相手の目にはそれが不敵な笑みに映ったようだ。
ボスたちは理沙から視線を外し、すごすごと引き下がった。
それから――
理沙は、施設の女子の間では「ヤバ女」と影で呼ばれ、引かれた。
けど理沙にとっては願ったり叶ったりだ。どっちみち理沙のほうも、皆と距離を置きたかったのだから。
それでも理沙は警戒を怠らず、外にいる時は必ず静也と行動を共にし、決して一人にはならないようにした。
施設内では相変わらず、他人と関わらないようにし、トイレと入浴はさっさと済ませ、食事を終えたらすぐに自分の居室に引っ込んだ。
理沙にとって、施設は『家』ではなく、気が抜けない――緊張を強いられる場所だった。特にトイレと浴室は。
・・・
ドキュメンタリー番組はいつの間にか終わっていた。
浴室で理沙を襲おうとしたあの3人がその後どうなったのか。
――ボスは中学卒業と同時に施設を出て、残り二人も突然いなくなった。親元に帰ったか、ほかに養育者が現れたか、あるいは別の養護施設に移ったか――入所者の出入りが激しい施設だった。
職員も平均4年でいなくなる。なので施設長以外とはすぐに縁が切れていった。
小耳に挟んだ話では、ボスも親からの虐待で保護された子だったという。
父親は母親に暴力をふるっていたが、母親が家を出ていってしまったため、暴力の矛先は彼女に向けられるようになった。
蹴られて肋骨も折ったことがあり、近所の人の通報によって父親は逮捕されたらしい。
ボスは母に捨てられ、父親から向けられる暴力の中で育ったのだ。
彼女にとって家庭の中こそが戦場だったのかもしれない。
安らぎの場を知らないボスの哀しさ――今ならば少しだけ理解できるような気がした。
ボスもほかの子たちも愛情に飢えた孤独な子たちだったのかもしれない。
いつか親が迎えに来てくれるのではないか。自分を温かく受け入れてくれるのではないか。家族との縁が結び直されるのではないか――施設へ保護された子どもたちの微かな期待。
しかし、いつまで経っても、それが実現しない子もいる。
最初から親を見限ることができる強い子どもはそう多くはない。
期待はやがてあきらめへ、将来への不安と孤独感は嫉妬や苛立ち、怒りへと変わり、粗暴なふるまいとなって現れてしまうこともあるだろう。
静也のことを『ヤバいヤツ』だと言ったボスは……もしかしたら、理沙に近づこうと親切心で教えようとしたのかもしれない。
だが理沙は静也をかばった。
その時、ボスは一瞬、寂しそうな顔をした。
自分は受け入れてもらえなかった――そう捉えたのかもしれない。
理沙は静也を選んだ代償として、ボスを傷つけたのだ。
――人と関われば、傷つける。そして傷つく……。
『ヤバいヤツ』と言われていた静也も過去にいろいろあったのだろう。
でも、静也が話さない限り、理沙から聞こうとは思わない。静也の過去は追究しなかった。
それに理沙もこの『浴室で乱闘になりかかった事件』を静也に話していない。
「ま、裸の戦いって……ちょっと……話しづらいよね」
理沙は一人苦笑する。
テレビ売り場では――テレビを買うのだろうか、家族連れがあれこれ品定めしていた。
3、4歳くらいの子どもがで一番大きい画面のテレビを指さすが、両親らしい夫婦は苦笑し、首を横に振る。
父親がその子を抱きかかえた。母親がその子に何かを語る。
子どもは満足そうな笑みを浮かべ、頷き、父親の肩に顔を埋めた。
微笑ましい親子の姿に、理沙は思う。
――あの施設にいた子どもたちはその後、幸せになれたのだろうか。孤独から脱することができただろうか。安らぎを得られただろうか。
人々で賑い、家族の幸福が響き合う休日のショッピングモール。
一人だけ取り残された気がして、急に家に帰りたくなった。
――静也と赤ちゃんの顔が見たい。
心がざわめく。
――早く家に帰ろう。
人々の間を縫いながら、足早となった理沙は食品売り場へ向かった。
夕食は、鶏肉に、玉ねぎに人参、ジャガイモにブロッコリー、しめじに、牛乳をたっぷり入れた具だくさんの栄養満点なクリームシチューを作ろう。シチューは静也の大好物だ。
天気予報では今夜は冷えるとのこと。蜜柑湯にしよう。
ドラッグストアに寄って、天然成分でできている蜜柑の入浴剤を手に入れる。
蜜柑は柚子の成分と同じく、果皮にある成分が血行促進作用があり、体を温めるので、寝つきを良くするらしい。風邪の予防にもなるし、柑橘系の香りも楽しめる。風呂好きの静也も喜んでくれるだろう。
買い物を終え、ショッピングモールを出る。
西空の淡い残照が雲を茜色に染めていた。ずいぶんと日が短くなった。
夕焼けに包まれた空が、刻一刻と色が落ち、夜へと向かう。
理沙は家路を急ぐ。
街に灯りが点き始め、家々の窓の明かりが増える。周囲の景色の輪郭が薄れ、暗がりに溶けていく。
辺りの色彩がなくなった頃、外灯の向こうに規則正しく並ぶ窓明かりが見えた。
そこには理沙の帰りを待ってくれる家族がいる。
「ただいま」
ようやく我が家にたどり着いた。
ドアを開けた理沙をほんわりした温かい空気が包む。
部屋の灯りに心が安らぐ。
「あ、おかえり」
静也ののんびりした声。
ホッとできる一番好きな瞬間。
帰る場所を手に入れた幸福を思う。
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