2月初め。まだまだ冬が立ちふさがり、寒い日々が続いていた。
年賀状事件からその後――
静也は仕事を妨害するような嫌がらせさえなければ、女性陣からはどう思われようがかまわないとし、淡々と職務に励んでいた。
黒野先輩は相変わらずで、静也もいつものように接していたが、みすず先輩やほか女性職員についてはバリアを張り、彼女らとはできるだけ視線を合わせず、義務的な挨拶と業務連絡以外の話はしないようにした。
そして出勤・退所、また広報課室を出て別のフロアへ移動する時は、エレベータを使わず階段を使用するようにしていた。
自分を嫌っている女子職員と運悪くエレベータで乗り合わせるのを避けるためだ。
もしそういった人と一緒になってしまうと、エレベータでは逃げ場がなく気詰りだ。相手もそうだろう。
そんなわけで今日も、仕事を終えた静也は総務部広報課室がある5階から階段を使って帰ろうとしたのだが、4階に下ったところであの小林主任とバッタリ鉢合わせてしまった。
そう、小林主任がいる生活部市民課は4階にあった。
一瞬、静也の顔が強張る。
小林主任はそんな静也を見て失笑しつつ、こう話しかけてきた。
「もしかして四条さんも階段、使うことにしたの? ならば私はエレベータを利用するようにしたほうがいいかしらね」
「……え? どういう意味ですか?」
静也は怪訝な目で小林主任を見つめた。
「とぼけなくてもいいじゃない? 運悪く私と二人きりでエレベータを乗り合わせるのは苦痛でしょ? だから私はダイエットも兼ねて『階段派』になったんだけど」
「はあ……」
1か月半ほど前――静也は仕事帰り、小林主任とエレベータで二人きりで乗り合わせてしまい、気詰りな思いをしたことがある。
小林主任のことは苦手であり、一緒になってしまったエレベータの中で思い悩んだ。このまま駅までの帰り道も一緒というのは勘弁だったし、乗る電車まで同じだったらどうしようと鬱々していたら、小林主任のほうが察し、エレベータが1階に着いた時「急ぐのでお先に」と言って、小走りに去ってくれたのだ。
以来、小林主任を食堂以外では見かけることはなくなったが、彼女はずっと階段を使っていたらしい。
「私だけでなく、ほかの一部の女子職員も苦手になってしまったのでしょ? 苦手な人が増えていくと大変ね」
「……」
「いえ、皮肉で言っているんじゃないから、そこんとこ悪く受け取らないでね。単なる提案として聞いてくれればいいのだけど……もし、そっちがこれから階段を使うならば、私はエレベータを使用したほうがいいかしら?」
「それは小林さんの自由でしょ。僕がどうこう言う権利はありません」
静也は何の感情も込めずに答えた。
和江も薄い笑みを浮かべながら、淡々と続ける。
「単に希望を訊いただけ。お互い、できるだけ顔を合わせないようにしたほうがいいでしょ? 私も自分を嫌っている人と同じエレベータに乗り合わせるのは苦痛。だから、四条さんの気持ちもよく分かるの」
「はあ……」
「いきなりこんなこと言われてびっくりしているでしょうね。でも気にしないで。お互い、気分良く過ごすための提案をしてみただけだから」
「……」
「ああ、足止めさせてごめんなさい。お先にどうぞ。私はゆっくり行くから」
「じゃあ、お先に失礼します」
静也は軽く会釈すると、足早に階段を下りて行った。
何だか妙な気分だった。
たしかに小林主任は苦手な人だ。
けれど、どこか自分に似た部分を小林主任に感じ、以前のそのエレベータでの振る舞いを反省し、彼女を毛嫌いするのはやめようと思いつつも、ずっと会わないまま今日まで来てしまったのだが……。
小林主任のほうも感じるものがあり、今までエレベータを使わず、静也を避けるように動いてくれていたようだ。
静也は職員通用口を通り、外へ出た。
冷たく乾いたビル風が襲い、外套が激しく揺さぶられる。思わず首を引っ込めつつも、そのまま駅のほうへ急いだ。
「小林主任が、あんな提案をしてくるとは……そんなとこもオレと似ている」
静也は苦笑する。
お互いが望むことを、感情的にならず冷静に現実的な妥協点を見つけようとした小林主任――意外と気が合うかもしれない。
でも、小林主任からお互いできるだけ距離をとろう、顔を合わせないようにしようと言ってきたので、それならそれでいい。
「ま、オレはずっと階段を使うことになりそうだ。いい運動になるし」
今日は節分の日。駅に隣接するデパ地下で晩ご飯用に恵方巻きを買うことになっていた。理沙は涼也の世話でヘトヘトなので、できるだけ彼女の家事負担を減らすようにしている。
「恵方巻きといえば……」
静也は去年のことを思い出す。そう、お昼に食べていた恵方巻きのことで、みすず先輩に言いがかりをつけられ、ひと悶着したことがあった。
結局、静也がみすずを言い負かし、みすずが謝り、その場は収まったが、よくよく考えれば実に下らないことで、やり合ってしまった。
今回だって、年賀状に子どもの写真が付いていたかそうでないかのことだ。
なのに、みすず先輩だけでなく女性陣を敵にまわしてしまい、本気で謝れば謝るほど、一部の女性職員らはバカにしていると不快感を顕にし、静也の謝罪を受け入れてくれなかった。
静也も、涼也が関係したことで不愉快になり、今も引きずっている。
「よし、今晩は豆まきでもして厄払いするか」
このギスギスした気持ちを癒したい。
静也はデパ地下に立ち寄り、恵方巻きを買った後、電車で帰途に就き、自宅近くのスーパーで豆まき用に『炒ってある大豆』を手に入れた。
豆まきに使われるのは『炒り豆』だ。
まいた豆を拾い忘れた場合、生の豆だと芽が出てしまうことがあり、それは「禍を招き、縁起が悪いこと」と考えられていたためだ。
また『鬼を射る=炒る』という語呂合わせからも来ているらしい。
こうした炒り豆は『邪気を払った豆』として『福豆』とも呼ばれている。
福豆をまいて鬼を追い出した後、その豆を食べることで、禍が封じ込まれるのだ。
ちなみに節分の豆まきの由来は、宮中行事の追儺(ついな)――宮中で陰陽師が豆をまき、悪霊を追い払う『豆うち』と呼ばれる厄払いの儀式――から来ており、やがてその行事が庶民に広がり、豆まきが行われるようになった。
そして、その追儺ももともとは古代中国から伝わったものだ。
日本では、大豆は『穀の霊が宿っている』と考えられ、米に次いで神事に使用されてきた。
豆は米よりも粒が大きく、魔を滅する=魔滅=まめという語呂合わせから、悪霊を祓うのにふさわしいということで用いられるようになり――
京都では、鞍馬山に鬼が現れた時、毘沙門天の教えにより大豆を鬼の目にぶつけて退治したとの伝説もある。
帰宅した静也は、そんなことを理沙に説明しながら、涼也の子守りを引き継いだ。
父子のスキンシップの時間だ。
一緒にお風呂に入り、涼也の体を洗う。涼也の丸々としたホッペ、涼也の丸々としたお尻、ぷっくりとしたおててとあんよ、ちょこんとしたおちんちん、もう何もかもがカワイイ。
太ももの白さとモッチリ感は理沙をも凌駕する。
けど、これがいつか自分のような男の姿になるのかと不思議な気もする。
お風呂から出た後、お乳を飲んだ涼也はすぐに寝てしまった。わりと寝つきがいいので助かっている。
ここでやっと一息。
夫婦水入らず、夕食に恵方巻きと温かい蕎麦をいただき、舌鼓を打つ。
昔、立春を新年の始まりとした時代もあり、立春の前日に当たる節分は『大晦日』になるので、節分に年越し蕎麦を食べる風習が残っている地方もある。
夫婦の会話が止み、汁と共にズルズルと蕎麦をすする音が食卓の上で響く。
恵方巻きも丸かじり。デパ地下で買ったちょっと贅沢な恵方巻きだから、おいしさも半端ではない。
蕎麦と恵方巻きを堪能した後のデザートには大福餅。ボリュームあるもっちりとした餅の中に散らばっている歯ごたえのある豆の食感がたまらない。餡もちょうどいい甘さ。
夫婦の会話も戻ってきた。
理沙は今日の涼也の様子を、静也は職場でのことを、それぞれ報告する。
ただ、小林主任との奇妙なやり取りについてはどう話したらいいのか分からなかったので、静也の心の中に留めておいた。
お茶を飲み、お腹が満足したところで、いよいよ豆をまくことにする。
今までの嫌なことを忘れ、厄を落として気分一新したい。
とはいっても、職場の一部の女性職員からは嫌われたままかもしれない。
静也も厄除けとして女性職員らに対し心のシャッターは下ろしたままでいるつもりだ。
そう、静也の心には『女性職員=鬼・厄』とインプットされてしまっている。
みすず先輩から「女性差別」と言われるだろうけれど、職場の女性陣は面倒な人種であり、できれば関わりたくないトラブルの元、つまり鬼・厄であった。
だが、女性陣から見れば、静也のほうこそ女性を傷つける『鬼』であり『厄』なのだろう。
自分の中に「この幸せを世間に見せつけてやりたい」という気持ちが全くなかったといえばウソになる。
それを手にしていない者をどこか気の毒に思い、見下していたところもあったかもしれない。
親を亡くし理沙と出会うまでの間、不幸の底にいた自分は周りの全ての者を遠ざけ、世間を呪っていた。
やっと手にした幸せをひけらかすことで、世間への復讐を果たした気になっていた。
――オレは涼也をその道具に使ってしまったんだ……。
だからしっぺ返しを食らったのかもしれない。
「鬼は外」
涼也を起こさないよう、ささやきながら、ベランダのある窓へ向かって理沙と一緒に豆を投げつける。
外に豆を散らかすわけにはいかないので窓は閉めたまま行った。
豆はその窓ガラスに当たり、パラパラと床に散らばる。あとで拾い、ちょこっと洗ってから熱したフライパンで水分飛ばして食べることにしよう。
鬼が逃げていっただろう外は、街灯や家々の窓から放たれるぼんやりとした明かりがあるものの闇に沈んでいた。
鬼がまぎれ込む闇。
それは静也の心の中にもあった。
豆まきはそんな自分の心と対峙する儀式なのかもしれない。
結局はその闇とどう折り合いをつけて、封じ込めていくかだ。
けど、女性陣とは当分、仲良くできそうもない。
エレベータだと退散したくでもできないので、これからもずっと階段を使おう。
ふとそんなことを思った節分の夜。
春はまだ遠い。
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