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夏休みが終わると死ぬヤツがいる。夏が終わると息絶える蝉のように。
僕も中学生の頃は死への誘惑にかられた。死ぬのは怖くないけれど、痛かったり苦しんだりするのはイヤだ。苦痛を感じずに一瞬で死ねればいいけど、万が一、失敗したら、痛い思いをして生き長らえてしまったら……それを思うと躊躇してしまう。そのリスクと引き換えにするほど現実が辛くなかったとも言えるのだけど。
でも生きる意味も見出せない。死ぬことができないから生きているだけ。
この世からおさらばできたヤツをうらやましく思う。
僕はまだかろうじて生きている季節外れの蝉だった。
2学期が始まった。
僕は、学校へ続く路をとぼとぼ歩く。
木々の葉が疲れたように枯れ落ち、道路の隅に溜まっている。僕と同じくまだ生き残っている蝉の鳴き声が耳に障る。それでも、あと数日でその耳障りな音も聞こえなくなっていくだろう。命が尽きる日はすぐそこ。うらやましい。
僕の通っている高校は、この地域で最もランクが低い公立校。
卒業したらどうしよう。進路はまだ決まっていない。特にやりたいこともなく、将来は不安しかない。
両親は仕事で忙しく僕のことは放置気味だった。
余裕のない暮らし。時間に追われる両親はいつも疲れ果てていた。彼らは、イライラしているか、ギスギスしているか、あるいはどこかに感情を置き忘れたように無表情。いずれにせよ、幸せそうではなかった。
時折、彼らが吐くため息が家の空気を澱ませる。
何を目的に生きているんだろうと正直思う。
ただただ生活するために働き、寝て食べて、それだけ。
毎日、義務付けられている日課をこなすだけで精一杯。
後は何も残らない。
これから僕も彼らと同じような生き方をするのだろう。
というか、僕みたいな人間がちゃんとまともな仕事に就けるんだろうか。
親以下になる可能性のほうが高い。
将来を考えると気分が落ち込む。僕程度の人間は社会の底辺で這いずり回るのがお似合いなのだろう。
外は未だうんざりするほどの湿気にまみれているけど、僕の心の中はカラッカラに乾燥していた。
死ぬほどの絶望感はないけれど、特に希望もない。
そんな自分の心を持て余しながら2年C組の教室に入った。
クラスメイトらの勝手気ままなおしゃべりが、ざわめきとなって耳に届く。
今日からまた、教室の空気を乱さないように、上の者から目をつけられないように、つつがなく次の休みまでやり過ごさねば。
とりあえず自分の席にカバンを置き、教室の前のほうにいる自分と同じランクに位置する仲間のもとへ向かう。
そこには地味で目立たない『中の下』といったあたりの人種が集っていた。
世間からランクが低いと呼ばれている学校に通う僕は、教室内でも下位に属している。
つまり下層の中の下層だ。
それでも、あいつよりはマシだと、一人の女子生徒に目をやる。
そう、クラスでは男子も女子もそれぞれグループもしくはペアを作っているが、一人だけ誰にも相手にされない生徒がいた。
それが長山春香だった。
さて、これが漫画やアニメ、映画やドラマなどのフィクションの世界だったら――その女子生徒は儚げで美しく影を持つ美少女として描かれるだろう。僕を含めて多くの人はそう期待する。
けど現実は、その真逆。
彼女は『ゾウさん』というあだ名がつくほどに珍獣を思わせる顔立ちをしており、どっしりとした体形をしていた。
美少女からもっとも遠い存在。
このクラスにおいてランク最下位、いやランク圏外、つまり論外という位置づけだ。
だからいつも独りだ。コミュ障なのかと思うくらい誰とも交流しない。そもそも、あまり学校に来ない。1学期もほとんど姿を見せなかった。
長山春香――こいつも将来の展望はなく、ただ苦労するだけの人生が待っていそうだ。
女としての武器も使えず、誰からも相手にされず、おそらく勉強もできず、あれでは就職も厳しいだろう。楽しいことなど一つもなく、ただボーっと無意味に生きている。
独りぼっちの長山は、『とりあえず仲間がいる僕』よりも下に位置する人間。
――彼女よりはマシ――
僕はそうやって自分を慰める。
と突然、長山がいきなり僕のほうへ顔を向けてきた。僕の視線を感じたのだろう。
瞼が垂れ下がった本当にゾウのような眼が、僕を直撃する。
ヤバい、眼が合った。
仲間だと思われたら困る。
すぐに視線を長山から剥がす。
そこへ友人らの僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
僕はホッとし自分が所属する輪へ入る。
独りになってはいけない。
独りになったら長山春香と同じ扱いにされてしまう。
圏外にはなりたくない。
僕のちっぽけな自尊心は下らない不安を内包しながら肥大する。
昼休みに入った。
長山春香は早退するようで、荷物を持ち教室を出ていった。
いつものことだ。誰も気にしない。
僕は相変わらず同ランクの友人らに張りつくものの、トイレに行きたくなり、仲間に声をかけてそこを離れた。
廊下に出ると、玄関とは反対方向にある階段を上がろうとしている長山春香の姿が見えた。
――あれ、帰るんじゃないのか?
何となく気になり、僕は後をついていった。
長山は校舎3階にある美術室へ入っていく。
この辺りの廊下は生徒が行き来することは少なくわりと静かだ。遠くに聞こえる蝉の鳴き声だけが忍び込んでくる。
僕はそっと美術室に近づき、部屋の引き戸に付いている窓から中を伺った。
長山はスケッチブックのようなものを出していた。
これから絵を描き始めるようだった。
ほかの学年やクラスの時間割は知らないが、おそらくこのあと5時限目は美術室が使われることはないのだろう。
僕は美術室から離れた。
教室へ戻りながらも、あの長山がどんな絵を描くのか、気になった。
もしかしてけっこう上手いのか?
ちなみに美術、音楽、書道は選択科目となっていて、僕は書道を選んでいる。
長山が何を選択しているかなんて興味なかったが、美術なのだろうか。
美術を選択しているクラスメイトはほかにもいるけれど、彼らから「長山は絵が上手い」という声は漏れてこない。
そんな声があったら、とっくにクラス中にウワサが流れているだろう。
と、ここで僕はふと思う。
なぜ長山のことがこんなに気になるんだろう。
それは――
おそらく彼女に、自分と同種の臭いを感じていたからだ。
外見は冴えず、普通レベルにさえ到達できず、これといった才能もなく、勉強もできない落ちこぼれ。
だがクラスでは、彼女は僕より下に位置している。
――だから、そのまま下でいてほしい。
僕は、そんなゲスな願いを抱く。
5時限目の授業が終わった。
僕はトイレに行くふりをして、また3階へ上り、美術室のほうを伺ってみた。
長山はいなかったが、机の上に水彩道具と開いたままのスケッチブックが置いてあった。トイレにでも行っているのだろう。
ちょっとした好奇心にかられ、美術室に入り、スケッチブックを覗いた。
それはとても透明感のあるキレイな絵だった。海と砂浜で戯れている少女の絵が描かれていた。
ボギャブラリーが貧弱な僕はただ「キレイ」という言葉しか浮かんでこなかったが、海と空の色合いといい、打ち寄せる波の様子といい、とにかく素晴らしかった。
何といっても少女の姿に惹きつけられた。風に揺れる髪の毛、スカートの裾、動きのある体の線。見事しか言いようがない。
――あの長山がこんな絵が描ける才能があったなんて。
嫉妬心を抱えたケチなプライドが揺らぐ。気がついた時、僕はそのスケッチブックを手に美術室を出て、階段を駆け下りていた。
――なぜ、持ってきてしまったんだろう、返さなきゃ。
けれど今、美術室に戻ったら、長山がいるかもしれない……。
ダメだ。長山のスケッチブックを盗ったことがばれたら、それがもしクラスメイトらに知られたら、おかしな誤解を生む。
最悪、僕は長山と同ランク、最下層に落ちる。
スケッチブックを持ったまま教室に戻れない。
とりあえず誰も使っていない扉付の下駄箱の中に隠した。
6時限目の始業チャイムが鳴る。
僕は急いで教室に戻った。
その日、長山は教室に戻ってくることもなく、僕も授業が終わった後は早々に帰宅した。
翌日、長山は学校を休んだ。
いつものことなので、クラスメイトらは気にも留めていない。
今朝、早くに登校した僕は、誰もいないのを確認しながら、例のスケッチブックを下駄箱から取り出し、教室の長山の机の中に返しておいた。
だけど小さな罪悪感が僕にまとわりつく。
本当は分かっている。僕はあの長山より人間としてのランクが低いクズだ。
この苦しさは、僕がクズであることを突きつけられているからだ。
僕は自分が嫌いだった。
けれど未だ、この世から消えることができないでいる。腹が空けば飯を食い、クズなくせにちっぽけなプライドを持ち、生き続けている。
長山は学校を休み続けた。
もう、蝉の声はどんなに耳を澄ませても聞こえてこない。
夏の蝉は潔く去っていた。
僕は蝉以下だ。
その後、長山は教室に姿を現さないまま、退学した。
いや、私物を取りに、一度だけ学校に来たらしいが、クラスメイトらに会うことなく去ったようだ。
長山の机の中は空だった。
おそらくスケッチブックは長山の手元に返されただろう。
僕はホッとしつつも、担任から説明された長山の退学理由を聞いて驚いた。
長山春香は――
本格的に漫画家かイラストレーターを目指すべく、その道に専念するという。これまでも漫画の新人賞に応募していたらしく、賞は取れなかったものの編集者の目に留まり、これからアシスタント業で生活していくそうだ。
あの長山にそんな目標があっただなんて。
もちろん成功するかどうか分からない。けれど、あの長山が夢を持っていたことに、その目標へ向かって旅立っていったことに、僕のケチな嫉妬心は吹き飛び、不思議な昂揚感が生まれた。
――例え叶えられなくても、自分を燃やせる何かを見つけられたら……。この膿んだ場所から飛び立てる。あの長山がそれをやった。
これが下位の長山ではなく、上位層の誰かだったら、こんな気持ちになれなかったかもしれない。
僕と同種の長山だったからこそ感化された。
いや、下位とか上位とか考えるのがバカらしくもなってきた。
閉じ込められた狭い教室の中でのランクなど、長山は何とも思っていなかったのだろう。
クラスメイトが長山を無視していたのではなく、長山がクラスメイトらを無視していたのだ。
長山がうらやましい。
この世からおさらばできたヤツよりも、今は長山のことをうらやましく思う。
でも、これは黒い嫉妬心ではない。
嫉妬は自分に近い人間に抱くものだ。
学校から離れ、違う世界へ行ってしまった長山は、僕にはもう遠い存在となった。
そう、長山にとって、学校は大した意味も価値もない、どうでもいい世界だった。
――その時、僕は何かから解放されたような気がした。
長山のスケッチブックに描かれたあの絵は一生、忘れられないだろう。
・・・
ある施設の部屋の中――長山春香は戻ってきたスケッチブックをしばらく眺めていた。
正直、戻ってくるとは思ってなかった。誰かの嫌がらせで、どこかに捨てられてしまったのだろうと、あきらめていた。
いや、あきらめていたというよりも、これが現実だと、乾いた心で受け止めていた。
水彩画を乾かすために、スケッチブックを広げたまま、トイレに行ってしまった自分が迂闊だった。
中学生の時はもっと警戒し、盗られないようにと自分の持ち物から目を離すことはしなかったのに、高校ではこれといったイジメを受けることなく、単に無視されるだけだったので、すっかり油断してしまった。
高校の選択科目は『美術』を選んでいたが、同級生らに目をつけられると面倒なので、授業をさぼったり、わざとなおざりな絵を描き、注目を浴びないようにした。
目立つと碌なことにならない。標的にされ、実害を被るよりも、無視され透明人間でいたほうがずっとマシだ。特に閉じられた学校という世界では。
――けれどスケッチブックは戻ってきた。
長山春香は不思議な気分に包まれていた。
この世界にも、救いがあるのかもしれない。
だから自分は未だこの現実にへばりついていられるのだ。
そんなことを思いながら、春香はスケッチブックを開き、絵を描き始める。
開け放たれた窓から、心地よい秋の涼風が流れてきた。
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