ここは大手の○○出版社の1階にある応対室――テーブルと椅子が並べられ、数ブースに仕切られており、漫画家志望者や新人漫画家が持ち込んでくる原稿やネームを編集者が拝見しアドバイスしたり、打ち合わせに使われている部屋だ。
「う~ん、まだこのキャラに感情移入できないんだけど。それと見せ場がしょぼいよね。もっと大きくコマとろうよ」
青年コミック誌の編集部に所属する編集者・浅野仁は、長山春香が持ち込んできたネームを読み、問題点を指摘していく。
「……分かりました。直してきます」
春香はボソボソと籠った声で応え、ネームをカバンに仕舞った。浅野がOKを出せば、春香は作画に取りかかり浅野が関わっているコミック誌の新人賞に応募する予定だ。
「ところでさ、今月から連載が始まったサワ先生なんだけど、臨時でアシスタントが欲しいらしいんだ。どうかな? 行ってみる?」
アシスタントは公募することもあるが、ツテで探す場合もあり、編集者が世話をすることも多い。
浅野仁はサワ先生こと沢田文雄の担当だった。
沢田文雄とは、彼が浅野のいる青年コミック誌の編集部が主催する月例賞に応募してきた時からのつきあいだ。
「はい……助かります」
春香は即答した。春香もちょうど仕事を探していたところだ。
「じゃあ、僕のほうから先生に伝えておくから、後で長山さんも先生へ連絡してくれる? そこで細かい条件なんか訊いてみてよ」
浅野仁は沢田文雄の連絡先を春香に教え「じゃ、そういうことで」と立ち上がった。これからそのサワ先生と打ち合わせだ。帰り支度をしている春香を尻目に先に部屋を出る。
とりあえず5階にある編集部に戻らないとならない。今ちょうどタイミング良く到着したエレベータに乗り込み、閉ボタンを押す。
扉が閉まると自然に頭が弛緩する。独りっきりの空間にホッと一息つく。
サワ先生こと沢田文雄に「今、雇っているアシスタントはあまり使えない。臨時でいいからほかの人を探してほしい」と言われた時、長山春香のことが頭に思い浮かんだ。
春香のほうも今までアシスタントに入っていた先生の連載が終わってしまい、仕事を探していると聞いていたからだ。
沢田文雄は、トーンやベタはデジタルで仕上げるが、ペン入れまではアナログで原稿を描く漫画家だった。
緻密な背景を描けるアシスタントを欲しがっていたので、アナログで繊細な絵が描ける長山春香がピッタリだと考えた。
浅野は春香に話をする前に、まず沢田文雄に春香の画稿コピーを見てもらった。
沢田文雄は春香の画力を気に入ってくれたようで、仲介を頼まれた。
が、そこで浅野は一つだけ沢田に確認しておいた。
ちなみに浅野よりも沢田の方が1、2歳年上だが、沢田は新人だし、浅野はざっくばらんにため口を利いている。対する沢田は丁寧語だ。
「沢田君ってアシスタントの学歴とか育ちとか気にする?」
「いや別に。そんなの気にする漫画家っているんですか?」
「だよね」
「何かあるんですか?」
「彼女、ちょっと特殊な育ちなんだ。児童養護施設育ちで高校は中退している……」
「そうですか。約束事やルールを守る真面目な人なら全く問題ありませんが」
「なら、良かった」
浅野仁も編集者として長山春香の作画の才能は買っていた。美しい絵を描き、なかなかセンスがある。
もう6年ほど前になるのだろうか。浅野が少女コミック誌の編集部にいた当時、新人賞に投稿してきた長山春香の絵が気に入り、賞を取らせるまでには至らなかったものの彼女の担当となった。ストーリーは稚拙だったものの、その時、高校生だった長山の伸び代を買った。
が、すぐに青年コミック誌に異動となってしまい、そのまま長山も引っ張ってきた。長山の絵はどちらかというと青年誌向きだったからだ。長山春香も、沢田文雄同様、けっこう長いつきあいになる。
浅野は打ち合わせの時、ストーリーのネタに漫画家志望者の生い立ちをよく訊く。
そこで春香が児童養護施設育ちで頼る親もおらず、一人で自活していることを知った。
今現在も経済的にもカツカツで、漫画のアシスタントで生計を立てているようだ。
ただ、こう言っては何だが……長山春香は世間の価値観で見れば、女としてかなり残念な部類に入る。いつも髪を後ろで束ね、化粧気はなく、服装はいつもよれよれ。色黒の肌は吹き出物で汚く、両目は小さく離れていて、体はデカく固太りしていた。
そう――ちょうど動物のゾウに似ていた。
そこでふと、浅野は元妻のことを思い出す。
春香とは真逆に位置する女。ごく普通の家庭で両親に愛され何不自由なくすくすく育ち、苦労知らずで性格も素直、明るく華やかな女性だった。容姿にも恵まれ、劣等感に苛まれるということもなく青春を楽しく謳歌してきただろう。
そんな元妻・福田さりなとは仕事で出会った。
仁が所属していた少女コミック誌のグラビアページの企画で、おしゃれな一般女子モデルを募ることになった。
その際、さりなが応募してきて、モデルに選ばれたのだ。
ほかにも数名の女の子が採用されたが、さりなはその中でもかわいかった。甘え上手で男心をくすぐった。そんなさりなに惹かれ、やがてつきあいが始まった。
けど結婚は想定外だった。避妊に失敗したのか子どもができてしまい、堕ろせとは言えず、結婚へと話が進んでしまった。
ただ、この時は結婚もいいかなとも思っていた。世間一般でいう『結婚=幸せ』を信じていたところもあった。
編集部の同僚たちからもうらやましがられた。育ちの良さそうな若く美しい妻を手に入れたということで、男としてのプライドを満足させることもできた。
そういえば、さりなに姉がいたけど、こちらは長山春香ほどではないにしろ不細工だった。だからなのだろう、男に甘えるなどということは考えていなさそうな、しっかりした印象をその姉に持った。同じ姉妹でこうも違うのかと驚いたことを覚えている。
バタバタと式を挙げ、籍を入れた。悪阻が酷い時期は実家に帰ってもらったので、実際はさりなが安定期に入ってから、一緒に生活するようになった。
仁としては、さりなのお嬢さん的なところが少々不安だったので、給料とボーナスは仁が管理し、月々決まった生活費を手渡すようにした。
案の定、苦労知らずのお嬢さんはラクすることしか考えないのか、仕事から疲れて帰ってくる夫に、家事育児を手伝ってほしいと迫ってきた。
疲れているのはお互い様だ。
なのに、さりなは自分だけが大変であるかのようにモンクを言ってきた。
仕事から帰っても、迎えてくれるのはさりなの疲れ切った顔。その瞳は家事育児に協力的でない夫を恨みがましく見つめるだけだ。
仕方なしに手伝ってやっても、やり方にケチをつけられる。そんなさりなにうんざりした。
そのうち、さりなの母親が、仁の住まいへ手伝いに来るようになった。
家事育児を手伝わない夫を見限り、さりなは自分の親を頼るようにしたようだ。
が、さりなの母親だけでなく、土日は父親もやってきて、両親そろって一日中居座ることもあった。
仁にとっては義理の両親とはいえ他人だ。どうしたって気を遣う。せっかくの休日なのに居場所がなく安らげない。
自分の家が乗っ取られている感覚に陥った。
そういう時は仕方なく、自宅から離れ、漫画家との打ち合わせがある、取材だと言って外出し、さりなの両親が帰る頃を見計らい、遠慮しながら帰宅するようになった。
――なぜ働いて稼いでいる自分がこんなガマンをしないといけないのか?
もちろん、さりなにモンクを言った。
すると土日はさりながえりなを連れて実家に帰るようになった。
正直、ホッとした。
さりなのうらみがましい顔を見なくて済むし、えりながいないとやはり静かだ。
自宅で家族と一緒にいるよりも、仕事で外に出ている時のほうがずっと楽しかった。仕事仲間や漫画家たちと一緒にいるほうが刺激的で会話も弾んだ。もちろん辛いことや嫌なこともそれなりにあるが、仕事場では生き生きと過ごすことができた。
その頃にはすっかりさりなへの愛情も冷めており、連絡事項以外の会話もなかった。
仕事が休みの時には、さりながえりなを連れて実家に行ってしまうので、娘のえりなとの接触もあまりなく……かわいいにはかわいいが、子どもへの執着はそれほどなかった。
それに平日は相変わらず、さりなの親が仁のマンションに来ているようで、仁としては気分が悪かった。他人にズカズカと自分の家に上がり込まれている感覚だ。
次第に、この結婚そのものに意味が見い出せなくなってしまった。
さりなにとっての家族は自分の両親と娘なのだろう。仁はその輪の中に入れなかった。
さりなと修復を試みるよりも独身に戻り、家族に気を遣わなくていい生活に戻りたかった。
そして家に帰った時くらいは思いっきり休みたい。休日は羽を伸ばしたい。ストレスは仕事だけで勘弁してほしい。
家庭は安らぎを得られる場所ではなかった。そんな甘いものではなかった。
そういえば、世間ではイクメンとやらを持ち上げ「男も家事育児をするべき」という意見が幅を利かせている。
同僚の中にも、給料全額を妻に握られた上、小遣いをもらい、妻の顔色を伺いながら結婚生活を続けている者もいるようだ。その上、家族サービスまで求められる。
いや「家族サービス」「家事育児を手伝う」という言葉まで批判される。
それらはやって当たり前だと、一部のフェミニストが声高に訴えている。
ならば自分は結婚に向かない男だ。自分は仕事に集中したい。それ以外の時間は、仕事へのパフォーマンスを上げるために休息に使いたい。
それに資産を増やすために投資も行っている。その勉強もしたかったし、いずれは会社を辞めて独立してみたい。その資金を作りたかった。
そう、会社員でいる限り、人事に逆らえない。どうしても興味が持てない部署へ配属され、いずれは編集の現場から離されてしまうこともあるだろう。仁は漫画編集という仕事が好きだった。
――でも、さりなは離婚に応じてくれるだろうか。
すったもんだなしで円満に離婚したかった。離婚調停で消耗したくない。エネルギーは仕事へ向けたかった。
――別れ話は、女からさせるように仕向けたほうが上手く行く。
そこで仁は、浮気を疑わせるようなことをわざとして、さりなのほうから離婚を持ち出すように策を講じた。
おかげで想像以上に離婚話はすんなり進んだ。さりなもこの結婚生活に意味を見出せていなかったようだ。
慰謝料はできるだけさりなの希望に沿うようにした。慰謝料を支払ってでも、この結婚生活を取りやめにしたかった。
しかし養育費については、その頃、投資で少し資金不足に陥り、数か月、振り込みが遅れた。
財産分与をし、慰謝料も払ったのだから、しばらく我慢してもらおうと思った。それに、どうせあちらの両親がさりなを助けるだろう。
今まで散々こっちは遠慮してきたのだから、養育費の支払いが遅れるくらい呑んでもらってもいいはずだ。
それに実は……仁は疑ってもいた。
――えりなは本当に自分の子なのか?
避妊に気をつけていたのに子どもができてしまった。けれど、もしかして、さりなはほかにも男がいたのではないか。そんな疑念がムクムクと広がっていた。
というのも、子どもが自分に全く似ていないので密かにDNA鑑定を依頼したところ、自分の子でないことが判明し、離婚したという知人の話を聞いたからだ。
そこで「もしかしてうちも……」と思ってしまったのだ。
娘のえりなは、さりなにそっくりだったが、仁には似ていなかった。共通点を見出せなかった。
なので、さりなとえりなが出ていく前、さりなの目を盗み、えりなの口内粘膜を採取してDNA鑑定業者に親子鑑定を依頼した。
この時点で、自分はえりなへの愛着もそれほどないんだなと思った。
結果は――えりなは自分の子であった。
が、仁の心は乾いたままだった。
えりなには悪いことをした。
罪悪感だけが残った。
だからせめて、さりなとえりなには幸せになってもらいたい。
が、そこに自分が関与することは養育費・教育費の義務を果たす以外ではないだろう。遠くで願うだけだ。
――僕は人間としてどこか欠落しているのかもしれない。
今でもたまに、そんなことを思う。
――そういえば僕の父親も、自分勝手な人間だったっけ。
母親は仁が大学生の時に病気で亡くなった。乳がんだった。
だが父は、治療費などのお金の面倒は見たが、弱っていく母を見るのが辛いから、行っても何の役にも立たないからと言って、病院へ見舞いに行くことはほとんどなかった。
母は、顔を見せない父のことにはほとんど触れず、仁の心配ばかりしていた。
元からそんなに仲のいい夫婦ではなかったが、人生の終わりさえも伴侶と時間を過ごすことなく世を去った母のことを思う。
父親は家族のために時間を使う人間ではなかった。
けれど結局、自分も父親と同じことをしてしまった。
自分も、さりなとえりなから逃げたのだ。
――甘いのは、さりなだけではなく僕も同じか……。
そういえば、次の日曜日は『父の日』だ。
でも自分はもう、祝ってもらうことは一生ないだろう。
ちなみに父の日は、母の日と同じくアメリカ発祥の記念日だ。
その由来は――ワシントン州に住むソノラ・スマート・ドッドという女性が、妻亡き後も再婚することなく男手一つでソノラ含め6人の子を育て上げ、働きづめの人生でこの世を去った父を偲び、「父に感謝する日を作りたい」と教会に願い出て、1910年6月19日第三日曜日に亡き父への礼拝を行ったことから始まった。
これをきっかけにワシントン州では6月第三日曜日が『父の日』となって広まり、その後、正式にアメリカの記念日として制定されたという。
仁は再び自分の父親のことを思う。
父親とはずっと壁があった。
幼い頃を除き、『父の日』を祝ったことはなかった。父親と遊んだ記憶もあまりなく、思春期に入ってからはほとんど口を利かなかった。母が亡くなり、父が別の女性と所帯を持ってからは、さらに疎遠になった。
けれども学費など経済面では面倒をみてもらった。
そう、あの長山春香に較べれば自分は相当、恵まれている。そこは感謝しないといけないかもしれない。
エレベータが編集部のある5階フロアに着いた。
――僕は子どもの犠牲になれない、子ども優先の生き方ができない、父親になる資格のない人間だった。
そんな自分は家庭より仕事を選んだ。
だから仕事に邁進するしかない。
閉じられた空間から出た仁は、雨に霞んでいる窓に目をやる。
――えりなが希望する道を進めるよう、経済面のバックアップだけはがんばろう。
せめて父親が自分にしてくれたことくらいは、子に返したい。そう思った。
窓に流れる滴が瞬く間に増える。
雨が本降りとなったようだ。
これから沢田文雄が住んでいる最寄駅の近くにあるファミリーレストランで打ち合わせだ。遅れないようにしないと。
今月から連載が始まった沢田の漫画は、読者人気アンケートでは中位。新人漫画家としては悪くはないが、やはりトップを目指したい。
別れた家族のことは心の奥底に沈み、仁の頭の中はこれからするべき仕事のことで一杯になった。
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